2016年10月6日木曜日

過剰人口の世界から逃れるには(1):「人口ボーナス」という甘いがウソで固めた罠から抜け出るには

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 遺制経済学は人口を馬力に置き換える。
 「大きいことはいいことだ」
である。
 人口が増えればパワーが増える。
 それを称して
 「人口ボーナス」
という。
 人口ボーナスは未来的には国を地球を滅ぼす最大の原因になる。
 自然生態系は人口ボーナスを嫌う。
 人工科学生態系に置き換えられればそれにこしたことはない。
 それば同時に生物生態系をも改変するということだ。
 さほどに人間は優秀なのだろうか。
 人間も生物自然生態系の一部にしかすぎない。
 そういう生態系があっての人間であり、構造的に組み込まれた一部に過ぎない。
 部分は生きる枠組みを越えられない。
 破壊するなら別だが、そうしたら破壊者としての人間が初めに滅んでしまう。
 

JB Press 2016.10.6(木)  伊東 乾
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48054

AIの進歩で必要になる人、いらなくなる人
その選別はまもなく本格化する


●東京で行われた記者会見で、トヨタ自動車が発表したコミュニケーションロボット「キロボミニ」(2016年9月27日撮影)〔AFPBB News〕

 今年もノーベル賞のシーズンがやってきました。
 日本は大隅先生のオートファジーの業績が「単独受賞」であることの意味を深く感じ考える必要がある、といった内容は、来週、具体的に触れるようにしますので、どうぞご期待ください。
 物理学賞を得たBKT相転移というのは、今から30年前、私が物理学生時代に携わらせていただいていた凝縮系の問題系で、あの頃はこういう問題の価値が本当には分かっていなかったな、などと思い返すだに感慨無量です。

 さて、10月8日土曜日にも私たちはノーベル化学賞受賞者、白川英樹先生をお迎えしての公開行事を行います。
 単にノーベル賞が出ました、報道します、と言ったレベルではなく、ノーベル賞の評価対象となるような水準の成果をコンスタントに出して行く人材育成を現実問題として検討していきます。
 東大本郷キャンパス、福武ホールで開く国立大学協会「大学改革シンポジウム」、午前中は英語のセッションですが、午後2時からの午後のセッションは日本語で分かりやすい内容を扱う予定です。
 午後のプログラムは上記の通り白川英樹先生(筑波大学名誉教授、2000年ノーベル化学賞)が「教える教育と教えない教育」のタイトルで基調講演され、近藤誠一元文化庁長官、鈴木寛元文科副大臣などのメンバーで徹底的に熟議いたします。
 国立大学法人の社会貢献事業ですので入場は無料、まだ残席ありますので、聴講ご希望の方はgakugeifu@yahoo.co.jpまでお申し込み下さい。

 今回は、2016年というタイミングで、小中高等学校と大学、それ以降の教育・研究がどのように一貫性を持ち得るか、そしてどういう人材を育てていくべきなのか、白川先生の「教えない教育」をカギとして「放し飼い」という観点から見当してみたいと思います。

■チェスと未来の雇用、用済みになる人材とは?

 少し前、SNS上に「AIの普及でこういう仕事は減ったりなくなったりするが、こういう観点に気をつけていれば生き残れる」的な内容を、この原稿のブレインストーミングのつもりで打っていたところ、
 「そういうことを30年前、チェス界でも言っている人がいた(が実際にはチェスはAIに凌駕されてしまった)」
というコメントをもらいました。
 とても良い例をもらったと思いますので、この観点ではどうしてダメなのか、SNSには記しませんでしたが、背景に踏み込んで見当してみましょう。

 ポイントは「チェスには勝ち負けがある」ということです。
 より正確には「ルールに従って勝ち負けを決定することができる」
 翻って、世の中のでき事には、一般にこれはない。
 ビジネスにも勝ち負けはあると思いますが、残念ながら画一的なルールなど存在しません(そんなものがあったら、大変楽かもしれませんが、負け組が決まっていたらたまったものではありません。
 北朝鮮みたいな体制だと、そういうことになりそうです)。

 チェスは初期のコマの配置が定められ、決まったルールに従ってコマを移動させ、すべての可能性が盤面の上で尽くされている。
 当たり前のことですが、これが世の中と大きく違う。
膨大ではあるけれど、有限確定な可能性を網羅して、最良手を見当することができますね?
 これを実行するうえで計算機の方が有利なのは、このルールをプログラムという「形式原語」でモデル化し、あらゆる可能性をしらみつぶしにできるからにほかなりません。

 現在私たちが使っているノイマン式の電子計算機は、限られた演算機能をフル高速で実行して、与えられた問いに答えを出していきます。
 こうしたモデルの系、プラトンならイデア界と言ったかもしれませんが、
★.これと現実世界との間には、少なく見積もっても3つ、本質的な違い、
 いわばモデルと現実の「断絶」があります。

◆.第1は物理的な不可逆性、確率統計的な断絶と呼んでおきましょう。
 これは確率変数を導入する計算などで補おうとするわけですが、同一の条件で計算すれば、それ自身を反復できるという「モデル化された統計性」で、覆水盆に返らない現実世界とは似ても似つきません。

◆.第2の断絶は生命現象によるもので、
 生命は個体と種の保存を不文律に自律的に生命活動を維持しますが、モデルにはそういう芸当はできません。
 非線形動力学系の話題で「人工生命」というトピックスがありますが、生命現象をモデルとして再現しているだけで、それ自体が生きているわけではない。
 ウサギなどは数匹、庭の穴に放り込んでおいても勝手に増えて大変なことになります(実際子供の頃に経験しました)が、壊れた計算機が自分で勝手に直るというのは、相当限られた範囲でしか期待できない芸当です。

◆.第3の断絶は心や意識、あるいは感情を持つというような要素で、今回はこれを扱おうと思いますが、あえてここでは「記号論的断絶」と呼んでおこうと思います。

 以下ではフェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)の一般言語学、ないし記号論的な枠組みを参照して、AIで仕事を失う人と、失わない人の別を考えてみましょう。
 なお、踏み込んだ議論にご興味の方は「表象のディスクール6 創造」(東京大学出版会 2001)所収の拙稿をご参照ください。
 2000年に展開した原理的な議論で、これを用いて「東京大学知識構造化プロジェクト」というもののマクロを準備しましたが、システムフリーの基礎的な内容ですので、現下のAIやIoTの議論も普通に扱えます。

■自然言語と形式言語

 それがどのようなものであれ、現在の技術で実現可能なAI、人工知能あるいはビッグデータマイニングといった類は、すべてシステム上で情報が処理されますから、そこで処理が可能な形にデ―タを整えておかねばなりません。
 何を当たり前のことを、と思うかもしれませんが、
 人間はそういうことがない、というのがこの話題の本質
ですので、まずここから参りましょう。

データを客観的に取り扱うためには、適切なプログラムを準備する必要があります。
 この計算プログラムは数式のような「形式言語」で記されており、意味が「一意に確定」する必要があります。
 形式原語、あるいは意味の一意確定、いずれも耳慣れない表現かもしれませんが、これがAIと人間を分かつ原理的な差異を生み出すのです。

 仮に計算機が、1つのプログラム表現で複数の解釈が可能なルーチンにぶち当たると、多くの場合「ミスである」すなわちバグとして演算をストップしてしまいます。
 そのような問題は「well-posed problem(よく準備された問題)」ではなく、「ill-posed problem(設定不良問題)」である。
 計算機で解けるよう、きちんと問題自体を刈り揃えてください、とクレームされてしまう。

 逆に、世の中の問題の大半は、数式のような形式原語で考えるなら「設定不良問題」で、解く前の段階にある、あるいは検討するに値しない問題である、と考える専門家もいたりする代物にほかなりません。
 例えば「ヘイトの問題」あるいは「人権問題」、どのような形であれ「経済問題」「格差の問題」「差別問題」さらには「環境問題」「倫理的な問題」裁判など「法律問題」・・・。
 これらすべて、単純な方程式で完備に書き下ろすことなど絶対に不可能で、形式言語を用いてwell-posedな問題に整形などされてはいません。

 無理にそうすれば北朝鮮超級の管理国家ということになるでしょう。
 ナチスの苛政の大半は合理化に端を発します。
 生産性が低く国の予算を浪費するだけだとして障害者や精神障害者を殺害したところから、ホロコーストはスタートし、強制労働に従事させられないと判断した者には第一食を供することなくガス室―焼却炉というのも、ほぼ形式言語で記述可能な合理性=非人間性を貫徹しただけと言うことができます。
 こういう問題は「解くに値しない」のではなく(そのように考える人も現実に研究機関内に存在しますが)適切に解決するのが難しい、しかし常に人間が取り組み続けねばならない永遠の課題と捉えるべきものです。

 少なくとも教養教育はそういう観点をしっかり有知識層に教えなければなりません。

 私の理学部物理学科時代の同級生T君は、修士修了後にとある霊感商法教団に拉致、洗脳されて地下鉄にサリンガスを散布する実行犯となってしまいました。
 何かの教育に欠如があったと思いますので、この20数年、その種のことに私がコミットしてきたのはご存じの方はご存じの通りです。
 この種の「解くのが難しい問題」を特徴づけるのには、様々な方法やアプローチがあります。
 数学基礎論、ゲーデルの論理学、脳科学からのアプローチ・・・。

 様々な方法がある中で、以下では比較的容易で、かつ汎用性が高いソシュールの記号論をご紹介しましょう。
 ちなみに記号学はアウシュヴィッツ以降、戦後の文学理論として多くの成果を上げ、とりわけフランスに端を発するポスト構造主義の議論は今もって豊かな可能性を秘めていると思われますが、そのような展開を昨今あまり多く目にしない気がしています。

 「あなたのお母さんの顔を想像してみてください」
 今、節のタイトルに記した、この言葉の意味が分からないと言う人は少ないと思います。
 あるいは「意味がない」と言う人もあまりいないでしょう。
 「あなたのお母さんの顔を想像してみてください」
 どうか読者の皆さんも、一度騙されたと思って、ご自身のお母さんの顔を脳裏に想像してみてください。

 で、これ、設定不良的な自然言語の典型なんですね。
 AIは当分この種のものに太刀打ちできるメドが立たない、子供でも分かる一例として考えてみたいと思います。
 「あなたのお母さん」と言われて、100人の人がその言葉を耳にしたら、100通りの「お母さん」が別に存在することが分かるかと思います。
 「貴方」のお母さんは今、台所にいるかもしれないし、彼のお母さんはスーパーへ買い物に出かけているかもしれません。
 私の「お母さん」は10年以上前にこの世を去りました。

 たった1つの「お母さん」という言葉、正確には有限確定な文字の列に過ぎないものが、それを受け取る人が10人いればほぼ10通り(兄弟姉妹がいれば重複することがあるかもしれませんが原理的には10通り)の別の「顔のイメージ」が、10人の脳裏に想起されるわけですね。

 ソシュールは、この文字列を「記号表現(シニフィアンsignifiant)」と呼びました。

 これに対して皆さんが脳裏に想像したお母さんの顔は「記号内容(シニフィエsignifie)」と呼んで区別することができます。
 また、この言葉やイメージの対象である実物、台所でニンジンを刻んでいるかもしれないお母さんという実物は「指示対象(レフェラン referent)」として別個に存在するものです。

 私の母親は地上に存在しないと考えればレフェラン不在かもしれませんし、青山墓地に収めてある骨壺が母親だとすれば、それが指示対象になる場合もあり得るでしょう。
 そう、「あり得るでしょう」と今書いた通りで、自然言語の記号体系は不明確、あいまい(ambiguous)であるのが本質的な特徴になっている。
 これを先に挙げた「一意確定」と対応させて考えるなら「多義的(Polysemy)」と表現すると、よりはっきりするでしょう。

 自然言語のポリセミー、多義性が厄介なのは、随時随所で意味を生成することができる点にあります。

 どういうことか?
 これは「ナニがナニしちゃったから、アレ、ナニしといて」みたいな言葉が、随所で無定義に通用するという、私たちの日常で随時使われている「ナニ」にほかなりません。

■ゲノムと多義性

 長年連れ添った夫婦がお茶を飲んでいるとします。新聞に目を落としたまま、お父さんが、
 「お母さん アレ取って」
と言うとき、奥さんが、
 「アレじゃ分かりません」
と言うのは、意味が解らないのではなく、奥さんの機嫌が悪いらしい、といった別の意味をも含意するでしょう。
 文学や雄弁術、あるいは卓抜した小説表現などは、こうした指示詞の自在、多義性の文化を誇ります。

 翻って、一意確定な記号処理に面目躍如たる電子計算機は、こうしたことが本質的に苦手です。
同じ文字列が様々な意味に解釈され得ること・・・。
 この「難しい問題」に計算機が大きくアプローチしたのが、ヒトゲノムの解読にほかなりません。
 たった4組の塩基記号だけで、私たちの命のすべてが「書かれている」というのは改めて驚くべきことで、ここで発達した「自然言語処理」の技術が今、私たちが常用する検索エンジンやSNS、さらには様々なビッグデータマイニング、AIの技術にも基礎を与えています。

 で、もっとも進んだ自然言語処理の技術も、十分に察しが悪いわけです。
 居間でお父さんが「アレ取って」と言うとき、指示される可能性がある100の対象を、お母さんはほぼ完全に聴き分けることでしょう。

 現在 のノイマン式電子計算機を用いた人工知能やビッグデータ・マイニング
で、こうした「問題」を解くうえで原理的な困難に直面しています。
 と言いますか、そうした原理的な問題が解決されない限り、ここ当分の間、人工知能は、こうした自然言語の生成する多義性に、ほぼ完全に無力なままにとどまるでしょう。

AIで失われる職種とは、一意確定に記号処理できる範囲のジョブ、タスクにほかなりません。

 逆に、AIやIoTが進めば進むほど、選択的に「人間の持ち分」として残るであろう要素は、ソシュールの意味で多義的な文脈の中で意味を判断する業務、そしてそれに責任を取る職種であることが、原理的に、まず外れないと言えると思うのです。

 だから、白川先生の「教えない教育」、逆に言えば「自ら調べ、自ら感じ考え、自ら学ぶ」タフな地アタマを育てる「放し飼い」の教育、人材育成が、2020年代以降の21世紀国際社会で、決定的に重要と考えられるわけです。

 この先の議論になるかどうかは分かりませんが、何にしろこうした準備を経たうえでの議論は、国立大学協会「大学改革シンポジウム」で展開したいと思います。

 10月8日土曜、東大本郷キャンパス福武ホールにお運びいただける方には会場で、また遠隔の方には次回以降の稿で、続きをご一緒したいと思います。



サーチナニュース 2016-10-13 22:19
http://news.searchina.net/id/1620762?page=1

日本を羨む人は多いのに
・・・日本人の幸福感の低さに疑問=中国メディア

 日本は経済が発展しているうえに治安も良い。
 しかし、国連の2016年度版の「世界幸福度報告書」によれば、
 日本人の幸福度は世界53位にとどまっており、日本人はさほど大きな幸福度を感じていないことがデータとして判明している。

 中国メディアの今日頭条は12日、多くの外国人は「日本は安全かつ衛生的で、おいしい食べ物も多い住みやすい国」だと認識し、日本人を羨ましがっているというのに、なぜ日本人は幸福感を感じていないのかと疑問を投げかけている。

 記事は、国連の「世界幸福度報告書」で、
★.日本人の幸福度が決して高くないことは
 「安全な食べ物と清潔な環境、安心できる治安と整備された社会福祉があっても、日本は必ずしも幸福ではないことを意味する」
と主張。
 日本人が幸福感を抱いていないという現状は「驚くべきこと」であると論じた。

 続けて、日本人の性生活が淡白になっているという調査があることのほか、
日本は世界的にも知られた自殺大国であることを指摘。
 また個人の幸福感は社会の平等さと関係があることを伝え、日本は近年貧富の差が拡大しているうえ高齢化も進んで若年層の負担が増していることを伝え、
 「日本の若い世代は将来に希望を持てなくなっている」と指摘。
 「日本は安全かつ衛生的で、おいしい食べ物も多い住みやすい国」であるにもかかわらず、日本人が幸福感を感じていないのはこのような要因によるものではないかと考察している。

 記事には、中国人ネットユーザーから多くのコメントが寄せられており、
 「日本人はストレスを溜め込みすぎだ。
 たまには発散させることも必要だ」
という意見のほか、
 「中国は環境も教育も医療も食べ物の安全性も日本に劣っている。
 中国人は最高に幸せだ」
と、中国の現状を暗に批判すると同時に、日本より劣悪な環境でも幸せに生きている人はいるとの見方を示すコメントもあった。



Record china配信日時:2016年10月14日(金) 8時10分
http://www.recordchina.co.jp/a138144.html

中国よりも豊かなはずの日本、国民はなぜ幸せを感じられないのか?
=中国ネット「経済的には豊かだが精神的には違う」
「日本人が不幸だと言うなら…」

 2016年10月12日、中国のインターネット上で、「なぜ裕福なはずの日本人は幸せを感じないのか?」と題する記事が注目を集めている。

 日本は、治安の良さや衛生環境の良さ、食べのものおいしさ、景色の美しさなどが世界から高く評価されている。
 一方で、今年3月に発表された国連による2016年度版「世界幸福度報告書(2016 World Happiness Report)」では、日本は53位と決して上位ではない。
 しかも、15年の46位からさらに後退しているのだ。
 記事は、
 「日本は本当に失業率が20%もあるスペイン(37位)や、政治や経済に危機が生じているベネズエラ(44位)、ニカラグア(48位)などよりも不幸なのか?」
と疑問を提起している。

 国連の報告書が指標として用いたのは、
1人当たりの国内総生産(GDP)、
健康寿命、
困った時に頼れる人の存在、
政治やビジネスの汚職の少なさ、
人生の選択における自由度と
寛容性
6つの要素。
 幸せの基準をどこに置くかは人によって異なるため、その国の国民が実際に感じている幸福度とは差がある可能性もある。

 記事は日本人が幸せを感じていない背景として、週刊誌が行った調査で
 40代男性の多くが「性生活がない」と回答したことや、
 98〜11年まで14年連続で自殺者が3万人を超えた「自殺大国」であること、
 日本社会ではますます貧富の差が拡大していることや、
 少子高齢化で特に若い世代が将来に希望を持てていないこと
などを理由に挙げている。

 これに対して、中国のネットユーザーからは、
 「知っている日本人はみんな『日本に生まれて幸せ』と言っている」
 「もし日本人が不幸だと言うなら、中国人は死んだほうがマシとしか言えない」
 「日本人はストレスが大きいからな。
 中国人のように発散しないし、いつも君子のふりをしないといけない」
 「経済的には豊かでも、精神的には豊かではないのだろう。
 引きこもりが多過ぎる」
 「幸福度の高さは、国による洗脳の程度に比例する」
 「日本人が幸せかどうかはわからないが、俺は不幸だ」
といったコメントが寄せられている。

 日本は過剰人口のために「伸びしろ」がなくなっている。
 成長する若者にとってはこの伸びしろに希望とか夢を託すのであるが、それが極端に少なってなっているという現実は気持ちを萎縮させる。
 既存のシステム(伸びシロのない社会)の中で生きていこうとすれば、若者より老人の方がキャリアが上で有利になる。
 若者は常に後ろに回されることになる。
 過剰人口が解消されるまでは若者にとって夢のない社会になる。




【資料】

Wedge 2016年10月12日 中村繁夫 (アドバンスト マテリアル ジャパン社長)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7933

「シンガポールは幸せランキングで世界最下位の148位」は本当か?

 10月の弾丸出張先はシンガポールでしたが今回はアジア圏で最も経済的に成功した国家、シンガポールについて書いてみたい。

■昔のシンガポールは住みやすい国だった

 今回のシンガポールの出張には家内が一緒だった。
 実は33年前にシンガポールの義兄の家に家内が僕の母を連れて行ってくれたことがあった。
 そんな訳で母の10回忌の記念に一緒に行こうということになった。

 1983年のシンガポールは住みやすく、JETOROに勤めていた義兄に連れられて毎日、有名ホテルのランチやディナーを楽しんだことを家内が話してくれた。
 ラッフルズホテルでは初めてシンガポールスリングやピーニャコラーダというカクテルを頂いたと楽しげに母が帰国後に話したり、ヘミングウェイやサマセットモームがラッフルズホテルを定宿にしていたと得意に話していたのが懐かしい想い出だ。
 Good wood park hotel では真っ暗な森の中の一軒家のステーキハウスに行ったり、セントーサ島で食べたスティームシュリンプやシャングリラホテルの飲茶(ヤムチャ)やマキシムドパリのかたつむり料理など見るもの聞くもの初めての経験だったと母がハイテンションになって話してくれたのが昨日のことのように思い出される。
 また、オーチャード通りのラッキープラザで換金をして伊勢丹では何を買っても物価は日本の半分だったと楽しげに土産話をしてくれた。

 母にとっては初めての海外旅行でシンガポールがたぶん御伽の国に見えたのだと思う。
 当時の日本は前のめりの時代で、何もかもが幸せだったのだろう。
 母の目から見たシンガポールは小さな島国だったけれども、日本企業の進出ラッシュで活気があって幸せな国に見えたようだった。


●ラッフルズホテル

■今のシンガポールは様変わり

 ところが、今回の訪問では家内のシンガポールに対する評価は全く逆転していた。
 タクシーに乗ってもデパートで買い物をしても誰もがつっけんどんで皆がイライラしているように見えたと言う。
 前日にクアラルンプールからシンガポールに入国したので、余計にそのように見えたのかもしれないが、物価は高くサービスが悪く見えたのは僕も同じだった。

 さて、最近よく感じるのは経済が強くて豊かな国家群が決して幸福ではないということだ。
 逆にルクセンブルグやオーストリア、スイス、フィンランドやベルギーは大国ではないが、落ち着いていてオンリー・ワンの強みと特徴を持っている。
 その意味ではシンガポールは小国であり、経済的にも成功し、リー・クアンユー元首相の理想を実現化した国家だから幸せな国であるはずだ。
 シンガポールは独立後わずか50年でアジアで最も豊かな国となったが、果たして本当に国民は幸せになったのだろうか?

■なぜシンガポールが行き詰まったのか?

 わが社(AMJ)は4年前にシンガポールに現地法人を設立し、経営面では一応の成功はしたが、最近の印象では何となく物足りなさを感じている。
 ここで簡単にシンガポールについておさらいをすると、シンガポールは東京23区とほぼ同じ広さの島に、米国や日本などから資本と技術を導入し工業化に成功した国家だ。
 90年代に人件費が高騰すると、ハイテクや金融サービスが主体の産業構造へと転換し、経済的には成功した。
 同時に高層ビルや緑が調和した景観があり汚職は無く治安の良さも最高だ。
 シンガポールの国民1人当たりの国内総生産(GDP)は2007年に日本、2011年に米国をそれぞれ追い抜き、現在は独立時に比べ100倍以上の約5万5000ドルに膨らんだ。
 ところが、シンガポールに実際に住んでみると、国民の生活は格差の拡大などで「能力至上主義」の成長モデルは行き詰まっているように見える。
 実際のところ、米国の調査会社ギャラップが2015年に発表した日常生活の「幸福度」調査で、シンガポールは、148カ国中、なんと最下位だった。

■シンガポールの光と影

 街にはゴミひとつ落ちていないし、なぜかハエや蚊などもどこにも飛んでいないという気持ち悪いほどの衛生管理がなされている。
 いまや安全で清潔な世界的な観光都市となったが、実際に住んでみると何か息苦しさを感じる管理社会で、富裕層にとってはよいのかもしれないが、一般庶民にとっては住みにくく疑問が残る部分が多いようだ。
 無論、何から何まで100点満点の国家などはありえないし、何事にも光があれば影もある。
 でも、はたして「富の集中」と「繁栄の追求」だけが国民にとって幸せなのかということが問題になる。

■見方を変えればどうなのか?

 「世界のベスト空港」は3年連続1位、
 「最も住みやすい都市」でも1位、
 「ビジネスに適した国」でも世界1位、
 「IT技術活用度」まで世界1位で、
 株の売買が非課税で、相続税もない
という素晴らしい部分もあるが、考えてみればこれも富裕層にとってメリットがあるだけで一般人にとっては手放しで幸せだということにはならない。
 このようにすべてが素晴らしく見える裏には、実は厳しい「規律」が存在するので、今やシンガポールは「明るい北朝鮮」などと揶揄されている。

■覇権を求める大国の価値観

 僕は既に世界中の105カ国を回り、長期間過ごした国はアメリカ、中国、ロシアなどだが、これらの大国に住んでみると幸福感はあまり感じられなかった。
 これらの大国はビジネスには好都合だが、実際に住んでみると競争社会なので一般市民にとって幸福感はないと思っている。

 大国の三大条件とは人口、軍事力、資源
を挙げることができるが、
 最近では世界の覇権を求めるという大国的発想そのものが時代遅れではないのかという気がしている。

 国連による幸福度ランキングではスイス、アイスランド、デンマーク、ノルウェイ、カナダ、フィンランド、オランダ、スウェーデン、ニュージーランド、オーストラリアがトップ10だ。
ちなみに日本は46位だが、まだましなほうだ。
 この中には大国は一切入っていない。
 米国や日本の真似をして経済大国に成りあがったシンガポールの幸せランキングは繰り返しになるが、今や世界最下位の148位なのだ。
 無論のこと、モノの見方によって幸福感の尺度は変わってくるので、これらの幸せランキングを鵜呑みにするつもりはないが、少なくとも経済力や軍事力や資源力だけが国家の価値だという考え方は明らかに変化してきていると思う。

■幸せの6項目とは?

 現代人の幸福感を具体的に分類すると、いくつかの要素が浮かび上がってくる。
 つまり、その要素は以下の6項目にまとめられると考えている。

1 :教育文化レベルが高い
2 :IT分野に強みがある
3: 自然環境と治安が整備されている
4: 医療費と教育費がかからない
5 :労働時間が比較的に少なくおおらかで親切な国民性
6 :物質主義ではなく精神性が高く、趣味や家庭を大切にしている

といった要素が見られる。

 9月のウェッジのコラムの『中国人は幸せか? 不幸せか』にも書いたが、中国の貧富の格差社会は幸せには見えない。
 鄧小平の「先に豊かになれる者から豊かになれ、そして落伍した者を助けよ」という「先富論」は、経済面からすると正しい判断だ。
 しかし、「社会主義自由経済」による「金権主義」だけでは決して幸せになれないという現実を見ていると、中国の経済力は改善したが、その生活をみると単に格差社会を進めただけだと言っても過言ではない。

■日本は何を求めるべきか?

 我が国、日本もこれからは真剣に「幸福感」について発想の転換をする必要がある。
 大国の条件である
★.「人口」については「世界の幸せな小国」をお手本にして、少子化を強みに変える方策を考えるべきだ。
★.「軍事大国」を目指すのではなく軍事の基礎になる「技術立国」を目指すべきだし、
★.資源の確保についてもグローバル経済の中で日本の経済力を活用した世界の資源企業を傘下に収める手法を模索すること
が賢明だろう。

 私の本業は「レアメタル専門商社」だが、産業の空洞化が進むならば、
★.資源が必要な産業は海外に移転させて日本国内には「技術大国」としてのR&Dセンターを強化し、世界の産業界をリードできるような「平和大国」を目指すべきだと考える。
 日本も古い価値観の覇権大国を目指さず、小国の良さを追求したほうが国民は幸せになると思う。
 もう無理かもしれないが(笑)。

 日本にとって「教育」「IT分野」「自然環境と治安」については、まずまずのレベルだと思うが「医療費」と「教育費」や「労働時間」と「おおらかさ」そして「精神性や趣味や家庭を大切にする」要素については今後の日本のテーマだと考えています。

 世界を回れば回るほど大国による覇権競争が人類を不幸にしている気がしてならない。
 要するに国家をまとめやすいのは小国(小さな政府)だし、米国の価値観の真似をするのではなくて日本らしい幸せな国家を追求するべきだと思う次第だ。
 初めての海外旅行にシンガポールを選んだ母は10年前に亡くなったが、もし今回一緒に来ていたらどう感じていたかな? とフト思いながら帰途についた。



【身勝手な大国・中国】



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