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2016.12.15(木) 新潮社フォーサイト
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48658
習近平の「一帯一路」に入れ込まない華僑たち
華僑サミットに参加して分かった活力とネットワークの秘密
中国が世界史において昇竜として新たに浮上したのは21世紀に入って以降である。
再登場したのは、江沢民総書記(当時)が中国農村の農業生産力に見切りをつけて、穀物、飼料などの対外開放の見返りとしてWTO(世界貿易機関)加盟を獲得した時だ。
WTOは貿易や投資を巡って内外無差別の条件を課しており、これで「共産中国」に投資をしても理不尽に資産接収の憂き目にあうことはない、と理解された。
これでまず在外中国人のビジネスマンが対中投資に本格的に乗り出した。
■華僑新世代が立ち上げた「世界華人経済峰会」
本稿では世界華人経済峰会(ワールド・チャイニーズ・エコノミック・サミット)を紹介する。
この集まりは、マレーシア在住の華僑指導者が中心となって、年1回の華僑大会を世界の各地で開催することを2008年に決めたことに発する。
2008年から2009年にかけて世界の金融危機は深刻化した。
中国は4兆元(約57兆円)の公共投資の拡大策を発表し、世界の総需要を管理するという気概を示した。
その後の中国経済の過剰供給能力に直結する施策取り決めであったが、この時点で中国は間違いなく世界経済の最前線に立った。
自分たちをDiaspora(ディアスポラ、バビロン幽囚以降の離散ユダヤ人)と英語表記する華僑たちは、立ち上がる時が来たと感じたようだ。
この時中核的な役割を果たした人々は、決して「長老」ではなかったことが興味深い。
1980年代の後半以降は東南アジア諸国の経済勃興が顕著となった。
ちょうどこのときに商機を見出した人々が中心となったのである。
「ディアスポラ」の受難の歴史のただなかにあった世代の人々にとっては、現地政府の華僑への目線を知るがゆえに、とても「離散中国人」を名乗ることなど考えられもしなかったといえよう。
それではなぜ華僑新世代が登場したのか。
そして彼らはどのような認識を、
1)中国に対して、
2)世界経済秩序の新展開に対して、
3)地域経済統合の新潮流に対して、
もっているのか。
■北京の政権の動向に左右されたインドネシアの華僑
「ディアスポラ」の受難の歴史を描ききった著作は世界的にもないのではないか。私が多少とも知るインドネシアでの華僑の人々の思いを試みに記してみる。
中国の国内情勢とインドネシアにおける政治経済情勢とが「共鳴」するときに、受難は一挙に顕在化するのだ。
インドネシアの華僑の命運は、北京の政権の動向によって左右された。
1963年4月から5月にかけて中国の劉少奇国家主席が東南アジア各地を1カ月かけて訪問した。
これは通常の国家間関係の改善を狙いとするものだった。
ところが劉少奇の留守の期間に毛沢東の主宰する会議が開かれ、階級闘争重視の方針が決定された。
同年9月に入ると農村の社会主義教育運動に関する方針が決定された。
これと同時にソ連批判論文が『人民日報』や『紅旗』に相次ぐことになり、1964年に入ると中国共産党は内に対しても、また外に対しても対立軸を相次いで打ち出した。
1964年2月「工業は大慶に、農業は大寨に学ぶ」運動が始まった。
5月に入ると毛沢東は戦争の危険性を指摘する。
そして軍は『毛主席語録』を刊行する。
6月には江青女史が京劇革命について講話を行った。
7月には彭真を組長として文化革命5人小組が結成された。
1964年12月には毛沢東は共産党内の資本主義派に言及する。
そして1965年1月に入ると「党内の資本主義の道を歩む実権派」を批判した。
こうした毛沢東による奪権闘争の開始は、インドネシアにも波及した。
インドネシア共産党議長のディパ・ヌサンタラ・アイディットは1965年2月に、使用されていない国有地や不在地主の土地を、農民たちに一方的に占拠させようという「一方的行動」を提起した。
指示と応諾の関係は間違いなくあっただろう。
毛沢東は内と外とで「革命」情勢を生み出したがっていた。
インドネシアの政治権力がスカルノ大統領からスハルト少将へと移行せざるをえない情勢が生まれつつあったといえるだろう。
■「中国語ができない」華僑
10月1日未明に9・30運動グループが決起しクーデターを実行する。
ジャカルタに戒厳令が布告され、共産党は各地で襲われた。
この時、インドネシア共産党=北京の支配下=中国人の暗躍という構図の元、華僑系の商店への暴行がくり返された。
アイディットが処刑され、中国人学校の打ちこわしが相次いだ。
1965年9月30日という日付けをもってインドネシアから中国人学校は消えたのだ。
華僑にとってこのことは何を意味したか。
1997年はアジア通貨危機の年となった。
経済活動が一挙に収縮するなかで、インドネシアではまた経済暴動が起き、華僑系の商店はまたしても襲撃の対象となる。
1998年に私はジャカルタで中国系経済人の話を聞いて回ることがあったが、彼らは声を潜めて恐怖感が持続していることに言及した。
そして亡命したい、財産処分を考えていると述べた。
亡命先としてどこを想定するのか、と聞くと、「米国」との回答が圧倒的に多かった。
これは私にとって想定外であって、華僑のネットワークに繋がって他の東南アジア諸国に移転するのでは、と聞いたものだ。
彼らは「中国語ができないので」と述べた。
中国人学校はジャカルタでも閉鎖されたまま30年以上が経過していた。
アジア通貨危機の折に40歳前後の華僑にとって、中国語は完全に外国語でしかなかった。
「ディアスポラ」の受難は、北京発でもたらされ、現地政府との間で更に追い込まれ、選択肢は狭められるという経緯のなかで生ずるのだ。
■「華僑による投資」という仕訳勘定
世界華人経済峰会の結成は、
1)北京との距離感に十全の注意を払い、
2)各地の現地政府の意向を無視することなく、
3)ファミリービジネスとしての到達度を高める、
という秘せられた目的から始まったのではないか、と私は考えている。
「ディアスポラ」の受難を軽減するためには、工夫も必要、連携の具体化はその第1歩という思いがあったに違いない。
そこに世界金融危機をきっかけとした4兆元プロジェクトが登場したのだ。
世界華人経済峰会はまずマレーシアで開催された。
そして2014年の第6回年次総会は重慶で行われた。
この地を選択したのには、習近平体制のもとで「脱・薄熙来」を掲げて経済再建を急ぐ重慶という都市の政治的背景があったといえよう。
そしてこの時、来賓として李源潮副主席は次のように述べた。
「中国への改革、開放以来の投資の60%は、在外中国人によるものだ」。
香港から中国への投資が多いことは言及されることがしばしばだ。
台湾、シンガポールからの投資もこうした勘定に入るだろう。
しかし、国別の統計ではマレーシア、インドネシア、タイ、フィリピン、ベトナムと分類されているものを、「ディアスポラ」とみなすわけにはいかない。
李源潮発言は、中国は国別とは区分した「華僑による投資」という仕訳勘定をもっていることを明らかにしたともいえよう。
■「ゲストに馬英九」で示した認識力
2015年の年次総会はロンドンでの開催だった。
英国への投資を通じて、一帯一路の投資メカニズムを作ろうとする習近平体制を、裏面から支援しようとする狙いだったといってよい。
そして2016年11月16~17日はマレーシアのマラッカで開催された。明時代の鄭和提督が5度にわたってマラッカを訪問して以来、マラッカは「ディアスポラ」の拠点のひとつとなっている。
首都クアラルンプールから車で2時間は要する地だが、開催の条件は整っていた。
まず中国を巡る情勢認識では、「ディアスポラ」にとって次の3点が気がかりだった。1)中国の経済調整のよって来る原因と今後の経済見通し、
2)保護主義に転じようとする米国の新政権の位置づけ、
3)南シナ海を巡る中国の単独主義的な安保姿勢。
またマレーシア華僑の立場からは次の3点が気にかかる。
1)漂流を始めたTPP(環太平洋経済連携協定)とブミプトラ政策(マレー人優遇措置)との関連、
2)1国2制度を掲げるものの、香港、台湾での反北京の政治意識の高まりに苦悩し始めた中国の指導者の考え、
3)マレーシアの経済情勢悪化のもとで、中国からの観光客への依存を高めようとするマラッカ州の動き。
TPPの漂流はナジブ政権にとって想定外だった。
ブミプトラをTPPの他の11カ国に公認してもらったのだ。
これでTPP体制の発足となれば、マレーシアの中小企業政策に弾みがつくはずだった。
このTPPの漂流に対して華僑は「それみたことか」という態度は決してみせない。
それは排外意識の強いマレー系の人々の「思う壺」にはまることを意味するからだ。
台湾から蔡英文総統に近い人を呼ぶことははばかられた。
北京との関係が良好な馬英九前総統を呼ぶことで、北京に対して自分たちの認識力を示そうとした。
残る問題は、中国経済の構造改革路線の必然性を誰に説明させるのか、であったという。
北京や上海からの研究者はリスクを取りたがらなかったからである。
外国人にということになり、マレーシアの経済研究所に人物打診があった。
もちろん「ディアスポラ」の分類に入る人からの助言を多とした。
たまたま私はこうした事情の中、マラッカで「中国大停滞」というテーマを提示することになった。
そしてこの「ディアスポラ」の一群の人々を観察する幸運にも遭遇したのだ。
■頼りは「脱国家のネットワーク」だけ
私の観察の第1は、一帯一路プロジェクトを取り上げて、その陰に隠れる術を彼らが完全に身につけていることだ。
一帯一路に対して、自らの持ち分を入れ上げるという意図は全く感じられなかった。
北京から資金が降りてくれればありがたい、という程度の入れ込み具合といってよい。
習近平の提起する一帯一路を大会の主要題目として取り上げ、中国人の研究者に論じさせたことで、護符を手に入れたと判断しているが如くであった。
観察の第2は、投資に当たってコンサルタントを使うことはないと言われる彼らのコネクティビティ(周辺との連結)のつくり方である。
彼らにとって、主権国家の枠組みに入って自らを守るという行動基準は想定外なのだ。
北京政府も一面では恐ろしいし、現地政府もいつ牙をむくかわかったものではない。
頼りになるのは脱国家のネットワークだけだ。
最もオープンであるはずのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)も信用していない。
私の観察によれば、彼らにとって、顔色もわからない、話の持つアヤも判断できない、そして語感に込めるニュアンスも引き出せないデジタルメッセージは、決していざという時に頼るべきものではない。
生のぶつかり合い、とでもいうべきものからの受信だけが、依るべきものなのだ。
有益な分析枠組みを提示し、リスクの所在について吟味する力量のある人物を求めて、彼らは会場内で見解をぶつけ合っていた。
この活力には世界中も脱帽することだろう。
田中 直毅
国際公共政策研究センター理事長。1945年生れ。国民経済研究協会主任研究員を経て、84年より本格的に評論活動を始める。専門は国際政治・経済。2007年4月から現職。政府審議会委員を多数歴任。著書に『最後の十年 日本経済の構想』(日本経済新聞社)、『マネーが止まった』(講談社)などがある。
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